旧虫プロダクション(1961年に設立され1973年に倒産)
創業した手塚が絵を描く漫画家でありアニメーターでもあったため、虫プロは「アニメーターにあらずんば人にあらず」
というアニメーター尊重の社風であったことを、虫プロに在籍したことのある富野由悠季らが証言。
1971年6月、手塚が今後の虫プロの方針として、初心どおりに作家集団として進めるか、利益追求そのものを目的とする企業体とするかを問いかけ、
繰り返し社員総会が開催。話し合いの結果、大多数の社員が川畑栄一部長を中心とした利益追求の企業体制を固めることで結論が出る。
これに失望した手塚治虫がそれまでの赤字を負担する条件で社長を辞任し、同調して退社する人材も相次いだ。
出崎統
『あしたのジョー』終了後、1972年10月にプロデューサーの丸山正雄、おおだ靖夫、作画監督の杉野昭夫とともに、
演出の波多正美、原画の川尻善昭ら『ジョー』制作班を引き連れてマッドハウスを設立。
直後に東京ムービーから、杉野とのコンビでちばてつやの『ユキの太陽』をアニメ化してほしいと打診があったが、企画段階で頓挫している。
結局、マッドハウスのスタッフとして最初に監督(クレジット上は「演出」)した作品は『ジャングル黒べえ』となった。
これにより、「本来の仕事」が決まるまでとの約束で引き受けていた創映社制作の『ハゼドン』のチーフディレクター職を、
第1話「ハゼドンがやってきた!」の演出のみで降板している
返信する