マジンガー&ゲッター(1972-75) ダイナミックプロ+東映動画


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001 2017/01/19(木) 23:28:34 ID:nk3OQSHxqo
マジンガーZ
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%82%B8%E3%83%...
放送期間:1972年(昭和47年)12月3日から1974年(昭和49年)9月1日。
放送回数:全92話
放送時間:毎週日曜日19時 - 19時30分
放送局:フジテレビ系列
制作:東映動画、旭通信社

https://www.youtube.com/watch?v=opt3S11yaQg

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037 2023/03/18(土) 05:01:41 ID:cC24F53qF.
>>36
――ゲッターロボのデザインはゲッター1が石川先生、ゲッター2とゲッター3が永井先生だそうですね。
永井:はい。ゲッター1はすぐできたんですが、石川ちゃんがそこから「あとは作れない」と。「1を作ったんだから全部作れよ」と言ったんですが、「作れない、作れない……」と延々やってる(笑)。なので「あとは付け足しみたいなものだから、こんなんでいいんだよ」ってその場でサラッと描きました。そうしたら石川ちゃんが「ええっ、早い~」と驚いてて(笑)。石川ちゃんは現実に上手く合体できるかどうかを真剣に考えちゃうんだけど、「アニメはウソが効くから、そんなの考えなくていいんだよ。合わなくても絵でゴマせるから大丈夫」と。
――そうして石川先生による『ゲッターロボ』がスタートします。
永井:石川ちゃんの場合は、僕に近い絵が描けるし、アクションシーンの演出をやるのが上手い。だから「ロボットアクションも(人間と)一緒だから。得意だからやれるよ」と言ってたんだけど、石川ちゃんは「人物設定が自分には向いていない」と言いだして……(笑)。もともとサッカー部のキャプテンという設定は決まっていましたし。だけど「サッカーなんて全然わからないし……」というんで、「好きなように変えてもいいから。主人公の名前とロボットが一緒だったら、あとは石川流でやってくれよ」と。少年サンデー編集部も石川ちゃんで描くというのは乗り気だったんですよ。『風魔孤太郎』を連載した実績がありましたから。だから石川ちゃんでいきたいというのもスムーズに決まったんですけど、本人が一番悩んでいた(笑)。

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038 2023/03/18(土) 05:08:46 ID:cC24F53qF.
>>37
――そもそも永井先生と石川先生の初対面はどのような感じだったのでしょうか。
永井:彼が僕の仕事場にやってきたんです。当時はボロアパートで仕事をしていたんですけれどアシスタントに蛭田君がいて、アルバイトのホシ君もいました。ただ蛭田君が厳しいものだからホシ君が音を上げて、自分の代わりになるヤツを連れてこようということで、知り合いだった石川ちゃんを連れてきたんです。
ただ石川ちゃんがきたとき、僕はネームをやるために外に出ていて。帰ってきたら蛭田君がそのことを教えてくれて「マンガを見てあげたけど、ちょっと使うのには無理がありますけどね」と言うんです。「でも原稿を一応見せてよ」と言ったら、たしかに絵は滅茶苦茶粗かった。でもャラクターがとにかくよく動いていて、とにかく面白味があって個性もあるなと。「これはすぐに伸びると思うから入れる」と蛭田君に言ったら「えぇー」と(笑)
――永井先生の現場に入ってみて石川先生はいかがでしたか。
永井:背景は下手だった。でも人物がいい。『馬子っこきん太』で山賊のモブを描いてもらったらこれがうまい。それで人物のほうに回ってもらうことになって。その後『あばしり一家』(69年8月10日号連載開始)の連載が始まる時は、「その他大勢は石川賢ちゃんに任せて共同でやる」と。それで『あばしり』が始まるんです。1回目から敵のヤクザみたいなのを沢山出して、それを石川ちゃんにやってもらいました。「これなら半分の労力で絵が描けるな」と(笑)。それで何とか連載することができました。

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039 2023/03/18(土) 05:11:22 ID:cC24F53qF.
>>38
――永井先生からみて、石川先生はどんな漫画家でしたか?
永井:器用だし、筆は速いし。キャラクターをいつも沢山描いてもらっていたせいか、モブシーンが滅茶苦茶得意になっちゃってましたね。わざわざ自分でもモブシーンを作って描いたりしていた。とにかくキャラが動いているのが好きで、アクションの演出も上手です。彼の才能はつねに感じていました。
――「これが石川賢の世界だ」と実感したのはいつ頃でしょうか?
永井:やっぱり山田風太郎の『魔界転生』(1987年)をやった時じゃないでしょうか。あのあたりでは、かなり自分流のものができあがっていたんじゃないかなぁ。描き溜めしている絵も毎回すごく良いので「これは良い作品になるな」と思って、ときどき「どうなったんだろう」と見に行っていました。
――石川先生が『ゲッターロボ』を描いたことで、どんな化学反応が起きたと思いますか?
永井:あれによって石川賢がマンガ家として、編集者など出版関係の人たちにしっかりと認識されたと思います。それまでは連載や読切をやったとしていても、そこまでマンガ家として確立できたという感じではありませんでした。『ゲッター』でテレビに名前も載りましたし、各出版社も「石川賢という、永井豪とは別のマンガ家がいるんだ」としっかり認識したのだと思います。ダイナミックのマネージャーとしても売りやすくて、セールスがしやすくなったでしょうね。

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040 2023/03/18(土) 05:13:50 ID:cC24F53qF.
>>39
――石川先生と最も密に仕事をされていたのは『ゲッターロボ』の頃なのでしょうか。
永井:いや、もう本当にずっと仕事をしていました、助けたり助けられたり。しょっちゅう飲みにったり、ゴルフに行ったり、帰りに送ってもらったり……。突然亡くなるまで、もう本当にずっと一緒でした。
――『ゲッターロボ』『ゲッターロボG』と続いて、その後、『ゲッターロボ號』(1991年2月連載開始)が改めて始まります。
永井:「『ゲッター』は石川ちゃん」みたいな感じで、基本はずっとお任せでした。『ゲッターロボ號』の時はキャラクター原案だけやりましたが、『ゲッター』のマンガは石川ちゃんにどんどん進めてもらえればいいやと。彼もいろいろな新しい設定を作っていって、敵も石川流にどんどん面白いものを考えてくれて良かったと思います。
――『ゲッターロボアーク』は連載中に読まれていましたか?
永井:通して読むというよりは原稿で見ることが多かったかなぁ。雑誌でちょっと見るけど、それも飛び飛びなんで、単行本になってから一応きちんと読んだりしました。そこで「こんな展開だったんだ」と初めてわかったり(笑)。例えばゲッター線というアイデアも最初は僕だけれど、その後の発展のさせ方は、石川賢のオリジナルを発揮してくれて。僕は「どんどんすごいことになっているな」と傍観者として見ていました(笑)。どんどん世界を広げていくれたのでいろいろなキャラクターが未だに生きてくれていることになったのは本当にありがたいです。

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041 2023/07/05(水) 20:46:29 ID:5T9d/JQ00c
1975年・冒険王ふろく・テレビコミック ゲッターロボG

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